新耳袋 第十夜

2005年、6月にメディアファクトリーから新耳袋第十夜が刊行された。
1990年に始まった新耳袋もこれで最後である。


あっさり目の話や、なつかしの話を髣髴をさせる淡々とした内容のこの十夜。
やはり今回も解り辛い文章が見受けられたりして、不満は残る。
(語りを文章化する際に出てくる歪からだろう。一時期のように、文芸への接近による
文章の荒れ具合に比べれば気にはならないが))
だが、それでもこの第十夜は「新耳袋シリーズ有終の美」であった。


今回は章立て自体がほとんどなく、一気に99話全てを読ませる仕様だ。
そのせいか、恐怖度が足りないと言う意見や最後の大ネタが不満だ、という意見が散見
された。そういった意見を見るにつけ、これまでの新耳袋の編集方法であった「章立て
」の重要度を再確認したと同時に、今回の十夜の狙いに気がついた。
この第十夜は「百物語である新耳袋」を再確認する為に存在している、と。


これまでも、新耳袋は事あるごとに「読む百物語」を標榜してきた。
読者もその部分を承知して読んでいたはずだ。
だが、次第にそれも「あってないようなもの」へ変貌してきたと思うのだ。
怪談一話を細かく分断して数話にする手法や、所謂大ネタをまとめて配することは「百
物語を読んでいる」という感覚を薄れさせる。
そういった流れから「読む百物語」から「新耳袋という怪談を読む」という感覚へ微妙
に変化してきたのである。


しかし、ここに来てこの第十夜の編集は再び私に「新耳袋は読む百物語であった」事を思
い出させてくれた。
章立てを一つにすることと、飛び上がるような大ネタを配さないこと。
これらが、重要なファクターだろう。
多分、木原・中山両氏は「わざと」このような編集をしたのではないか。
わざと山を作らない事・刺激を抑える事によって、「百物語をしている雰囲気」を再現し
たのではないかと思うのだ。
賛否両論もあろうが、私は良い選択であったと思う。


また、第十夜の存在が、
「シリーズ全てをもって、一つの新耳袋
だということを語っているのではないだろうか?
これまで、どの巻が良かった、どの巻が嫌いだ、どの巻が最高傑作だ、という話があった
が、それは間違いではなかったかと思う。
乱暴に言わせて頂けば、実は新耳袋を巻ごとに評価することは間違いではなかったのだろ
うか、と。
一巻一巻では新耳袋の真価を問うことが出来ないだろう。
新耳袋全十巻をもって評価をしなくてはならない、と思うのである。
すなわち、「第十夜はシリーズ全てを繋ぐ力があった」と言えるのではないだろうか?
これを著者は「円環」という言葉で表していた。言いえて妙である。


もしこれから新耳袋に触れる方が居るなら、第一夜から読まれることをお勧めする。
その方が新耳袋という実話怪談集を味わうのに最適な選択である。


ここから、どういった方向に両氏は進んでいくのだろうか?
新耳袋という呪縛から解かれて…いや、これからも著者二人は新耳袋という十字架を背負って
いかねばなるまい。
例え新しい怪談を書いても、比較されることは避けることが出来ないだろうから。


新耳袋―現代百物語〈第10夜〉

新耳袋―現代百物語〈第10夜〉