木原氏に物申す。

昨日買った「不思議ナックルズ」に掲載されていた「「新耳袋」封印された裏のエピソ
ードの真実」という記事を読んで、何やら色々と考えたことがある。
記事を書いたのは「新耳袋」著者の木原浩勝氏。
最初に断っておくが、私は「新耳袋」という怪談書籍が好きであって、嫌いではない。
これを言っておかないと、勘違いする人も多いだろう。
「ああ、こいつは新耳袋が嫌いなんだ」と。
そうではない。ただ、この記事に少しカチンと来ただけだ。理由はこの後を読んでも
らえば分かるだろう。ただ、言わせて貰えば、これは素人である私個人の意見である。
他の感じ方や意見をお持ちしている方々も沢山いると思う。
それは肝に銘じているし、単なる戯言と思っていただいても構わない。


誤解を恐れず書くならば、木原氏は自分の書いた怪談以外を怪談と認めていない節があ
る事に、腹が立ったのである。



新耳袋の現状>
今回の記事の要約をすれば「新耳袋が呪い系・祟り系・因果系を書かない理由」だ。
実際、私は新耳袋がこうやって禁じ手を儲ける事に関して、好意的に考えていた。
禁じ手の存在が新耳袋の構成で大きな意味を持っている、と感じたからだ。
禁じ手を設けることは間違っていないと思うが、それが最近言い訳になってきている
ように思う。
新耳袋は、現在の怪談ブームの一端を担い、世間での評価も高く、売れに売れた。
これがその<言い訳>をさせる原因になったのかもかもしれない。
そして、次第に「新耳袋」は大きな勘違いを始めてしまったのである。
解説や自分達で設けた会に著名人を参加させて、それを喧伝し「利用」する。
「怪談は偉大な文化であり、我々は現代の遠野物語を編んでいる」と自ら「格付け」。
メディアでの過剰な宣伝。次第に増してくる「理解しがたい文章表現」。
そして、禁じ手の崩壊。
「禁じ手は破られていない」という方がいるのなら、もう一度きちんと読み直して欲しい。
特に7夜から9夜にかけて、じっくりと。
ただ単に「この後死んだ」とか「実は殺された」という一文がなければ、禁じ手が有効だな
んて考えは通用しない。


今の新耳袋から、初期持っていた「怪談ならではの怪しさ」は消え失せてしまった。
かわりに<怪談界はオレのもの><怪談界を牛耳ってしまおう>という匂いがする…
と思う私は穿ってものを考えすぎだろうか?



そういえば、ネット上で「第9夜は最高傑作だ」という評価があった。
あの解体したオカルト書評サイトの「冥帝文庫」、逸匠冥帝氏が発表したものである。
それは正しい評価ではない…いや。
冥帝氏だけの感想だったら、正しい。書評ではなく感想であるのなら納得できる。
しかし書評ならば、きちんと怪談書籍としての評価をせねばならない。
(書評と感想の違いは明確にせねばならない、と私は思う)
あれは集まったネタが圧倒的に面白かっただけで、怪談書籍としては疑問が残るもの
だった。文章の一部は無駄に難解な表現を用いた為にただ分かり辛いだけであったし、
全体の約三分の一を占めた「ヤミノササヤキ」サイトからの転用ネタに関しては一切
言及していなかった。実はこの「ヤミノササヤキ」サイトのネタがなければ、第9夜が
どうなったかは、推して知るべし、だろう。
と、この話は今するべきではないかもしれない。
ただ、言いたい事は「残念ながら、以前の新耳袋ではなくなってしまった」ということだ。
勘違いして欲しくないのは、私の「懐古主義」でこんな事をいっているのではないこと。
「進化をせずに、退化してしまった事」に関して苦言を言っているだけである。
この事を、踏まえて、次を読んでいただきたい。


<何故、禁じ手を設けているのか>
そんな現在の新耳袋だが、今回不思議ナックルズでこんな事を木原氏は語っている。
「呪い系、祟り系、因果系っていうのは、怪談の出る余地がないからです」
「(怪談よりも)現実のビジョンの方が怖かったりするわけです」
<呪い、祟り、因果を扱った怪談は怪談ではない>と言わんばかりだ。
もちろん、その後も訂正は一切なしである。
そして<自分はそれを除外して、怪異のみで怪談を構成している。これが怪談だ>
とでも言いたいのだろう。
裏を返せば、「新耳袋以外の怪談書籍は怪談と銘打っているが、怪談ではない」と
言っているのと変わらないのである。
(蛇足的だが、実話系サイコホラーに対する当てこすりにも聞こえる発言でもある)


そんなことは全くない、と私ははっきり言っておこう。
実際、古典といわれる怪談(落語を含む)は「呪い・祟り・因果」で構成された話が多い。
私個人は「怪談は世相を映す鏡であり、生きている人間の業も怪談の重要なファクターで
ある」と考えている。
怪異だけで構成されたものも怪談だし、呪い・祟り・因果を含んだ怪異譚も怪談だ、と。
木原氏はそれについては一切言及していない。



<祟り・呪い・因果は危険なのか>
そして、木原氏はこうとも言う。
「(呪いのメカニズムを)受け手側に都合よく転化されたり、転用されては困る」
怪談として、祟り・呪い・因果の方法が読者に伝わり、使われると困る、ということ
だろう。
だったら、稲川淳二氏の「生き人形」、加門七海氏・霜島ケイ氏の「三角屋敷」
小池壮彦氏の「山の上のホテル」、平山夢明氏・加藤一氏の一連の著作等は大問題になる。
ほぼストレートな形で呪い・祟り・因果を描いているのだから。
もちろん、具体的な呪いのメカニズムなんか記載されていない。

普通に考えたら、この程度で実用なんか出来るわけはない事を冷静な読者諸氏は理解
しているだろう。本当に呪いたかったら、怪談書籍を読まずとも専門書があるのだから、
そっちを参考にすればよい。大体その前に人を呪うような状態の人間が怪談書籍を手に
とって、呪いの方法を調べる…ということはないだろう。ナンセンスである。


もしくは「不条理な殺人」の方法などについて言っているのだろうか?
「殺人・ストーカーなどの現実の犯罪の方法を公開している」とでもいうのだろうか?
はっきり言わせて貰えば、「何、馬鹿な事を言っているんだ」である。
雑誌やニュース、ネットにはそんなものがゴロゴロしている現代なのに。
もしかしたら自分が書いたもの以外の怪談に対する攻撃なのだろうか?
逆にこの記事を読んでから、怪談書籍をそういうオカルト・犯罪メカニズムの観点で
買うものが増える可能性もあるのではないだろうか?まさに、余計な話である。
また、著者に降りかかる危険に関しても書かれているが、それは今まで色んな人々によって書かれてきた。取って付けたような意見なら入れないほうがマシ、というものだろう。


<だったら、語らないでいて欲しい>
今回の記事を読んで、最終的に思ったのは
「言わなくていい事は、言わずに済ませて欲しい」
ということだった。先ほども言ったように、悪用(出来るとは思わないが)を助長するよう
な事になるかもしれないだろう。
大体、そういう事を言っている暇があれば、自らの書いた怪談そのもので勝負すれば良い
わけで、禁じ手がどうとか、高尚な云々など、ライトな読み手には意味がないのである。
最終巻でそれに軽く触れるくらいに留めておけば、読者も「ああ、新耳袋は凄いね」と
言った可能性があったと思うのだが、いかがだろうか?
木原氏に言えることは「公で発言するのなら、もう少し細かく思案して発言すべき」と
いう事だろう。他の怪談書籍著者や読者に失礼である。


この不思議ナックルズの記事。
木原氏は自ら<新耳袋>を貶めたのと変わらないことをしてしまったのかもしれない。


怪談は、娯楽である。自由である。
初心に帰るのなら、これを忘れないでいて欲しい。
そして、初心に帰ると同時に「進化すること」を恐れないでいて欲しい。



<追記>
これを読まれた方で、木原氏の関係者がいらっしゃるなら、このBlogの存在を伝えていただいても構いません。もしくは、ご意見が頂きたいところです。
考えてみると、木原氏に意見をする人がいないのが不思議。


引用元:不思議ナックルズ vol.3 実話GON!ナックルズ 6月1日増刊